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美人の妻をめぐる争いの物語

津喜武多グスクの按司には美人の妻がいました。その夫人に隣の幸地グスクの熱田の子が惚れたことから大きな争いがおこります!

こんな物語です!

『津喜武多グスク・チチンタグシク』の「津喜武多按司」の妻は、絶世の美女だったそうな。

その夫人に、隣の『幸地グスク』の「熱田子・アッタヌシー」が恋をするが、人妻ではどうもできない。

ある日、津喜武多按司の妻が、近くのティラサガーで髪を洗っていると、通りかかった熱田子が、泥土を夫人に投げつけいたずらした。

このことを知った津喜武多按司は激怒したが、熱田子はウフブシ(武勇に優れている)と聞いていたので、

事を荒立てずに、様子を見ることにした。

それを聞いた熱田子は、先手をとり、臣下を引き連れ按司の元へと向かい、津喜武多按司に詫びた。

安心した津喜武多按司は仲直りの宴を開く。宴の途中、熱田子は、「津喜武多按司が持っているとても珍しい宝剣を見たい」といい、

津喜武多按司は、宝剣を渡す。

すると宝剣を手にした熱田子は津喜武多按司を斬り、酔っていた臣下達も片っ端から、皆斬り捨ててしまった。

そして、夫人を、口説き落そうとするが、夫人は、井戸に身を投げ死んでしまった。

この話を聞いた津喜武多按司の遠縁にあたる今帰仁城主「今帰仁按司・ナチジンアジ」は、大軍を引き連れ討伐に来る。

熱田子は、謝罪するとして今帰仁按司らを招き、饗宴を開く、そして、すっかり油断して引き上げる途中の今帰仁の軍勢を襲い、

伏兵達に討たせた。

その後、今帰仁按司の4人の息子達は、熱田子を討ち、父の敵を討つために兵馬の訓練を積み、見事熱田子を倒し、津喜武多按司とその妻、そして父親の仇を取ったという。

物語の舞台へGO!

美人の妻をめぐり、大きくなった争い!その舞台を訪ねてみよう。

 津喜武多グスクへの行き方

県道38号沿い「ファミリーマート西原中学校前店」をスタート北向けに行く!

西原中そばを通り角の信号を左折、西原の塔を右に見て、学校給食調理場の前の信号を左折、車の後方に見えるピラミッド型の山がグスク

消防署の横の❝大きな道❞を道なりに行くと左手にある道を行く。

小波津団地入口、写真手前がグスク

津喜武多グスク散歩!

小波津団地の西方、標高60メートルほどの丘の上に築かれたグスク。「チチンタグスク」と呼ばれている。

今帰仁城主が北山王の「怕尼芝・はにじ」に滅ぼされた時、世の主の四男がこの地に逃げ延びて住み着き、

津喜武多御嶽を守護神として崇拝。グスクを築いて津喜武多按司と名乗った。

また、一説には「伊波按司の二男」が築城したとも言われている。

現在残っているピラミッド状の丘とその付近の台地に築かれていたが、小波津団地の造成により、石垣などは残っていない。

グスクの下の標柱の所から上るといくつか墓があるが、その付近に手を加えた跡がある。

小波津団地側から上るといくつか墓があるがグスクとの関連は不明。

「御先尚円長子嘉手苅按司前の墓」うさちしょうえんちょうしかでかるあじまめーのはか

尚円王の長男の墓となるが「平成元年」の碑があるのであやしい!

今度は「内間ノロ」の墓 香炉は古いが内間のノロがなぜここに葬られたか関連性不明!

事件の発端の湧き水・・・ティラサガー(亭良佐井)

「津記武多按司・チチンタアジ」の夫人がこのティラサガーで髪を洗っている時に、「熱田子・アッタヌシー」が夫人に泥を投げたという。

産水をとる井戸(ウブガー)。正月の若水もそこから汲む。

どんな旱魃でも涸れたことがなく、集落の共同井戸や西原中学校の用水摂取池として使われていた。

ティラサガー(亭良佐井)への行き方

県道38号沿い「ファミリーマート西原中学校前店」スタート。ラーメンの看板を過ぎ、南歯科医院手前で左折、

県営西原団地6号棟のそばをすぎ、小さな橋(亭良佐橋)を渡る。

県営西原団地2号棟を過ぎた道のそばの小さな森の中にある。団地の給水塔が目印。

街道を守る城・・・幸地城

事件の首謀者「熱田の子」の居城「幸地グスク」城内を街道が通っている!一本のナンヨウスギが目印。

幸地グスクへの行き方

西原の坂田交差点から首里へ向けて行くと「オキコのパン工場」があり、そこをすぎた最初の信号を左斜め前の道に入る。(坂田高層住宅に入らないように)

道なりに下ると左手に商店がある。そこを更にすすみ比嘉空手道場の手前のカーブミラーを左折、

奥へと進む。一番奥の突き当りの道を右折、ゆるい坂道を登ると広場がある。

城の中に道が・・・幸地グスク散歩

西原町の西部、幸地集落東南の標高約100メートルの丘陵上にある。

グスクは高地を中心として、その東西の低地に向かって伸びる尾根を利用して造られている。

主郭:グスク内の一番高い所、現在ビージルの祠がある所は周辺を観察するための櫓台。

北東の郭:30m×30mほどの広さを持った曲輪で、北寄りには井戸がある。

空堀跡の道路と幸知按司ガー、グスク上門のカー(上門とあるのでこの付近に入口があったかも)

峰の上の道路(中城方面へ向かっている)

削平地:西方から北西にかけても、幅が10mほどの削平地が数段造られ、居住地化されていった可能性が高い。

このグスクの注目すべき点は、峰の上を通過する「峰道」がグスク内を通過することにある。一種の関所的機能を持ち、戦時には道路を封鎖する目的で造られたと考えられる。

首里へ向かう街道

幸地グスクからの眺め

いかがでしたでしょうか?

 

 

 

 

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